世界を知る対談 鈴木修 × 寺島実郎

2013/08/21

 
201308202054_1-350x0.jpg     スズキ株式会社
  代表取締役会長兼社長

    鈴木 修 氏

 「日本の軽自動車というのは、自動車の中では芸術品だと思います」。
 
 これは、35年という長い歳月の間、強烈なリーダーシップと行動力でスズキの陣頭指揮を執り、日本独自の軽自動車文化をリードしてきた鈴木修氏の言葉です。寺島と鈴木氏は、鈴木氏の来歴や現場主義に徹する経営哲学や海外展開戦略など多くのテーマを対談で取り上げました。
 
「アルト」と軽自動車
 スズキ成長の鍵は軽自動車に焦点を絞り込んだ点にあると考える寺島に対し、鈴木氏は「本当はね、大きい車を作りたかったんですよ」と打ち明けました。かつてのスズキは小さな自動車メーカーであり、「身の丈」を考えるとまずは小さな車造りで経験を積むべきであると、鈴木氏は「泣く泣く小さな車に舵を切った」のでした。
 しかし、軽自動車には厳密な寸法規制や排気量規格があり、安全性や快適性を確保するのは至難の技で、常にギリギリの設計が求められます。この難問に立ち向かったスズキは、鈴木氏の社長就任翌年にあたる昭和54(1979)年、大ヒットとなる初代「アルト」を発売するに至りました。車体色は白赤2色に限定し、内装を簡素化するなど徹底的にコストを削減することで、驚愕の47万円に価格を設定、しかも全国統一価格としました。この作戦が功を奏して、アルトは圧倒的人気を誇り、ついには生産が追い付かず、セールス担当者は「待ってください」とお客様に頭を下げることに奔走しました。
 アルトの成功により、会社内は「小さな車でも良い車を造れば売れる」「やればできる」という自信とコンセンサスに満ち溢れました。鈴木氏によれば、昭和54年はスズキの記念すべき「自動車造りの元年」となったのです。
 
徹底した現場主義の原点
 寺島によれば、鈴木氏は常に現場を第一に考え、自ら自動車ユーザーの心を把握して生産現場に伝え、生産現場の意気込みを販売店に伝える役割を担ってきました。現場主義の原点について寺島が尋ねると、鈴木氏は、田畑から離れて農作物を育てられないのと同様に、自動車生産も現場を知らないと誤った判断を招くと答えました。また、社長室を訪ねて直談判する社員を座して待つよりも、社長が自ら現場に足を運ぶと、「社長、これは無駄だと思います」と忌憚のない意見を社員から引き出すことができると、現場に立つ意義を強調しました。
 
予科練を経てスズキへ
 話題が鈴木氏の半生に及び、終戦が少し遅れたならば、鈴木氏は特攻隊員として戦地に赴き、命を失っていたであろうと述べる寺島に対し、鈴木氏は「それははっきりしていた」と答えました。現在83歳の鈴木氏は、こうした戦争の時代に生を受けたのでした。
 昭和5(1930)年、岐阜県の山間の村に生まれた鈴木氏は、11歳という多感な時期に太平洋戦争開戦を迎えました。旧制中学3年生の時に飛行兵を目指して予科練に志願、終戦時は15歳でした。姫路の特攻基地から飛騨の実家に帰り、父親と再会すると真っ先に「なぜ神風は起きなかったんだ」と訴えました。敵を倒すことが国に尽くすことであり、国民の義務だと信じていた当時の自分を振り返り、鈴木氏は「これはもう教育のせいだ」と語りました。
 
 戦後、鈴木氏は生計を立てるため、飛騨の農協職員となることを考えていました。しかし昭和25(1950)年、20歳となった鈴木氏は、成人式で聞いた町長の祝辞に強く心を動かされました。それは、「日本は戦争に負けた。私はもう、どうにもならないが、若いみなさんが先頭に立ってこの焼野原を再建してくれ」という一節でした。
 この言葉に突き動かされた鈴木氏は大学に進学、卒業後は銀行に就職しました。そこでスズキ(当時の鈴木自動車工業)の2代目社長鈴木俊三氏の長女との縁談が持ち上がりました。そして鈴木家の娘婿となり、スズキに転職。当時28歳の鈴木氏は、将来の社長候補であり、周りの厳しい視線が突き刺さりました。
 
「こんちくしょう精神」
 スズキ入社後、最初の配属先は経営企画室でした。しかし鈴木氏は、1週間で「これはダメだ、現場を知らない人間が経営企画なんてできるわけがない」と確信し、配属先を変えてほしいと社長に直談判しました。しかし社長は、「お前は将来社長になるのだから、経営企画室で勉強すればいい」と取り合ってくれませんでした。鈴木氏は、「冗談じゃない、現場を知らないと何をやっているのか分からない」と粘り強く説得し続けました。
 そして入社から約3年後、軽トラック生産工場新設プロジェクトが立ち上がり、その責任者として鈴木氏に白羽の矢が立ちました。周囲の「お手並み拝見」といった視線を感じながらも、鈴木氏は「負けてたまるかこんちくしょう」と奮起し、豊臣秀吉の「一夜城」の勢いを髣髴させる働きで、1年弱で新工場を完成させました。寺島は、この「こんちくしょう」精神に、軽自動車で大手ライバルと戦い、世界に打って出た鈴木氏の原点を見たのでした。
 
スズキの海外展開
 スズキは早くから海外に目を向け、当時の他社には考えもつかなかったパキスタンやインドに現地工場を建設、さらには東ヨーロッパのハンガリーにも進出しました。
 寺島がインド進出時の様子を尋ねると、鈴木氏は1970年代後半から80年代前半に行った数々の挑戦を語りました。当初はアメリカ進出も試みましたが、大型車が確固たる地位を占めており、ライバル他社との競争に不利であると考え、アジアやヨーロッパへのシフトを決めました。そしてインドは、広大な国土と多数の人口を有しており、発展途上国の中でも比較的安定していると判断、「俺について来い」と言わんばかりに、土地探しから契約までを率先して行いました。訪印回数は実に100回を超えます。
 この話を鈴木氏から聞いた寺島は、アメリカ市場参入の成否が自動車業界の将来を決するという当時の風潮下にあって、インドをはじめとするアジアやヨーロッパを見据えた鈴木氏の視点に驚きを覚えました。そして、鈴木氏の判断力とリーダーシップがあったからこそ、一般的な経営理論を越えたスズキの海外展開が成功したことを幾度も強調しました。
 
「俺は中小企業のおやじ」
 鈴木氏はスズキを「中小企業」と言い切ります。会社の規模ではなく、色々な点に気を配り、商品そのものにきめ細かさを持たせることが企業の命運を左右するとの信念からです。そして、自動車にはさらに研究開発の余地があり、たとえ「限界に挑戦している」と思っても、実際は限界には至っていないことを心に留めておくべきと力説しました。
 対談を聞いていた学生の一人が、鈴木氏に「好きな言葉は何ですか」と尋ねました。すると「やる気」と即答しました。このやりとりを聞いていた寺島は、スズキはリーダー以下、若い社員まで全員が「やる気」に満ち溢れていると語りました。
 対談からは、日本の自動車業界が常に新しいニーズを見据え、新しい技術を貪欲に取り入れてきた姿とともに、まだまだ自動車デザイン先進国とは言えない点など今後向き合うべき課題も浮かび上がりました。寺島は、新たな課題に挑戦すべきは若い世代であるとして学生や若者の奮起を期待し、対談を終えました。
 
                                                                                                                        
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       鈴木 修(すずき おさむ)


     1930年1月30日、岐阜県益田郡下呂町(現下呂市)生まれ。中央大学
     法学部卒業後、銀 行勤務を  経て、1958年4月、鈴木自動車工業(現スズキ)
    に入社。2代目社長鈴木俊三氏の娘婿となる。1963年11月、取締役に就任。
    1967年12月に常務取締役。1973年11月に専務取締役。1978年6月に代表取
    締役社長を経て、2000年6月から代表取締役会長。2008年12月からは社長を
    兼務する。
 

 
                                         就職を機に世界と人生を考える! BS寺島 月9トーク(BS12 TwellV) 
                                                                                      第8回放送 (2013年2月18日)より

 
 


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